筆者は最近、映画をあまり見ていないので、映画館の大スクリーンで観る映画の魅力を懐かしく思い返しているところです。もちろん、自宅で観るDVDやストリーミングの手軽さや快適さも大好きです。それなくしては、この自粛期間は乗り越えられません。しかし映画館での体験は、自宅では味わえない魅力をもっているのも否めません。「映画館で映画を観る」というのは、感覚的に圧倒され、ピュアでユニークな没入型の体験ですが、その素晴らしさは一体どこから来ているのでしょうか?

小説家のヴァージニア・ウルフも、1926年に映画を観た後、同じような疑問を抱きました。「映画を観ることは、本を読むことやコンサートに行くことと何が違うのだろう?」と考えたのです。ウルフにとって映画とは新しい芸術形式であり、進歩した技術なのですが、映画が人々の生活や人生を描ける力を持っているものかどうかは、まだ分からなかったのです。

ヴァージニア・ウルフの没後80年を迎えた現在、人々は映画を本来の姿、つまり大スクリーンで楽しみたいと考えるようになっており、ヴァージニア・ウルフがエッセイ「ザ・シネマ」で書いた予言的な洞察が再注目されつつあります。

映画がかける魔法

ヴァージニア・ウルフは、「人類は文明末期におり、哲学者たちは全事象は語りつくされたと考えている。しかし、彼らは映画のことを忘れている。」と述べています。これを見ると、当時の映画が「自分に関係ない他人の人生をつぶさに見る」ための全く新しい方法だったことがわかりますね。愛、憎しみ、恐怖、怒りの全てがスクリーン上で繰り広げられ、人々はそれに魅了されていたのです。

そこでウルフは、観客の顔に現れた畏敬の念が、原始的な喜びに帰するものである、と気付きました。映画の奥深さを例えるなら、「様々な要素が一緒くたに煮込まれている大きな鍋を、その上から眺めているようなもので、鍋の中では時おり大きなうねりが発生し、混沌の中から何かが生み出されようとしている。」といったところでしょうか。

映画の可能性について言及したウルフの鋭い洞察が魅力的なのは、彼女が「映画には人々の意識や想像力を広げ、驚かせる力がある。」と考えているからです。ウルフは、王様やグランド・ナショナル競馬場のニュース映像についてのみ、述べているわけではありません。そうではなくて、「映画には、日常生活で見ているのと異なる種類のリアリティがあり、人々はよりリアルに物事を見ている錯覚に陥る。」と考えていたのです。

ウルフの最大の関心事は、「映画製作者は、どうやって独自の芸術形式を作り出すのか?」という点にあります。彼女は「アンナ・カレーニナ」のように、映画化すべき小説があると認める一方で、「映画には、既に語られた物語をもう一度語りつぐ以上の力がある。」と確信していたのです。ウルフはまた、文章からイメージされたキャラクターを、映画で描き出す難しさについても指摘しています。無理に同じように描くのではなく、映画と文章を一致させようとするのをやめた時に初めて「映画が実現できる可能性について理解することが出来る。」と述べているのです。

ウルフはまた、有名な「ドイツ表現主義」のホラー映画を観た時のことを「驚くべき恐怖をもたらし、我々を震えあがらせて恐怖を増大させた後に、また非実体へと沈んでいった。」と記しています。